鑿鍛冶の独り言履歴07年分

TOPへ 鑿鍛冶の独り言 次回の出没先 道生の独り言 問い合わせ
プロフィ−ル 刃砥ぎについて 製作工程 今月の特殊品
切り出しなど 特殊刃物 リンク

鑿鍛冶の独り言トップ

鑿鍛冶の独り言履歴 07年度

鍛冶屋の独り言履歴08年1月〜

鍛冶屋の独り言履歴09年1月〜

鍛冶屋の独り言履歴10年1月〜



 その6今年の目標08.1.10.)

新年明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

私は今年の10月で69歳になります。

思えば早いもので鑿鍛冶の道に入って57年、独立して33年。

この間にいろいろな用途の鑿を手がけてきましたが、
仕事をしている時はそうではないと思うのですが、
最近少し物忘れが多くなり、あまり大ボケしないうちに今年から月に一度、
過去に作った製品を当時の方法で再現して作ってみたいと思っています。

今、私が仕事をしていかれる間に、
どれだけの品が出来るか試してみたいと考えております。

まず今月は、今はあまり作る事が少なくなりました
角打の追入鑿を作ってみます。(一寸以上は面取り)

昔は追入鑿というと(50年位前までは)これが普通だったと思いますが、
段々と面取りになり、今ではこれがどういう訳か普通品に変わりました。

砥ぎやすさからでしょうか・・・、何か他に理由があるのか、
どなたか分かったらお聞かせ下さい。

尚、今月作ります角打鑿は2月に写真で載せたいと思います。







その5若い職人さんを見て思う事07.12.1.)


月日の経つのは早いもので、暦も残り今月一ヶ月となりました。
今年の8月より私の思ったことを書いてきましたが、
文章を書くと言う事は、大変に難しいものだと痛感致しました。
今回で5回目となりますが、トリトメのない文を読んで下さいました方々には
年の〆にあたり、厚くお礼を申し上げます。

さて私は先月問屋さんと一緒に、ある小売屋さんの展示会
に息子と2人で行ってきました。
この展示会には10年位前より行っています。
私は鑿を作ることは出来ますが、使う事は知りませんので、
使う現場の方より、使い勝手や切れ味などが聞きたくて、
小売屋さんの展示会に出展させて頂いて来た訳です。
いつも思うのですが、よく今の若い者はと言う人がおりますが、
私の作業場に見学においでになる方々と言い、展示会で
お会いする方々と言い、熱心で礼儀正しく感心しております。
きっと、親方や先輩方の教えが良く、
その若い人達を見ているときっと立派に
修業をしているんだなと思っております。

以前、テレビで見た宮大工さんの修業中のことをしていたのですが、
親方の厳しく、優しい姿(心でしょうか)
きっと物作りをする一人前の職人になるには、素直に親方や先輩の
教えを素直に受け止め、気持ちが大事なのだと思いました。
この様な人々の中から、きっとすばらしい
色々な分野の職人さん育っていくのだと思いました。
物作りを目指す本当の職人さん達は、
日本にはまだまだ多く育っているんだと感じました。
私の修行中、親方はよく「慢心は技の行つまり」だと言って教えられ、
少しぐらい仕事が出来たからといって、一人前気取りになるな
職人の仕事は、無限なんだと教えられた事をふと思い出しました。



来る年も皆様には良い年であります様に
心よりお祈り申し上げます。






 その4電話での質問07.11.1.)


ある日の電話
私) リ〜ンリ〜ン、 はい田齋です。
*) あの田齋さん、ちょっとお聞きしたいんだけど。
田齋さんの所では、何鋼を使っているんですか?

私) はい私の所では主に日立金属のヤスキハガネですが。
*) 青紙か。
私) はい青紙と白紙です。

*) 焼は油か。
私) いいえ、水ですが、おたくさんはどちらの方ですか?
*) アーOO県のOOだけど。

私) どうしてこの様な事を聞かれるのですか?
*) いやーちっと田齋さんの鑿を使って見ようかと思って。

私) それは有難うございます。
*) それで組はいくらするんや。
私) それは、私共の品物を扱っている、小売屋さん
に行って、聞いていただけませんでしょうか。

*) 青紙と白紙は、どっちが切れるんや。
私) 同じぐらいだと思いますが、私は作る立場ですので
使う方の好みと思いますが・・・


*)OO鍛冶屋はOOの鋼が一番だと言っていたぜ。
私) あ、そうですか。

*) おたくは鉋も作っているのか。
私) はい。


*) 鋼は何を使っている。
私) 鑿と同じです。

*) あーそうかい、わかった、ありがと。


と言う様な電話がここ1.2年の間に時々来るのですが、何なんでしょう。
又何を聞きたいのかよく分かりませが、鋼の事を色々と言ったり書いたり
しているのを見聞きしますが、どんなよい鋼を使っても熱処理の
良し悪しで鋼は生きもし死にもすると私は先輩や親方から聞いてきました。
私もその様に思います。 ですから、鋼を生かして使うと言う事は
刃物を作る鍛冶屋は参考書に書いてある、数字や文章はあくまで
参考であって、やはり先人達が築いてきた、使う人と作る人との
積み上げてきた努力の上に現在の刃物の発展があるのだと思います。
だから、使う方々は今自分が使っている道具に満足しているなら
買い替えの時は、又その鍛冶屋さんの作った物を買ってみて下さい。
鋼を考えるのは、鍛冶屋でこれを文章や言葉に書いても
理解できないのです。 使う方は出来た製品で、評価して頂きたいと
どこの鍛冶屋もこの様に考えていると私は思います。









 その3鍛冶技術伝承07.10.1.)


私達の技術の伝承は親から子、兄弟への肉親と
徒弟関係の弟子において継承され、
そして彼らの独立、開業することで鍛冶技術も
新旧の移り変わりのあるなかで伝承されてきたと思います。

仕事を覚える事は、親方や兄弟子のする事を見よう見まねで
始まりますが、一年位はまず仕事場の掃除、道具の整理整頓が仕事です。
この様な事をしているうちに、この作業の時はこの道具、
この作業の場所にはこの道具を揃えておく、これがスムーズにいくようになると
仕事のやり方や作業の流れが分かり始めるようになります。
この様な形の中で鍛冶技術の伝承が始まります。
あとは如何にして、親方や兄弟子と同じ仕事が出来る様になるかです。

そこで覚えた技術を基本にして、移り変わる時代と共に
新しい材料・道具・機械を取り入れて鍛冶屋形態より工程を分業して
数を作る工場へ、または転業し現在の三条では大型機械で鍛造による
様々な部品及びプレス製品・作業工具・建築金具などの産業が
行われておりますが、依然として私達のように多少は変わっておりますが
昔の鍛冶作業で物作りをしているところが三条では数多く残っております。


今、私の住んでいる三条市に残る古来よりの鍛冶技術を
経済産業省より伝産法に基づき、伝統品産地指定を受けるべく
運動をしておりますが、これは100年以上の産地背景があり
そして製造主要部分が手工業的であること
100年以上続く伝統的技術、技法によって製造されるもの、
100年以上の伝統的に使用されてきた原材料であること
一定の地域で産地形成していること
これらの要件を証明する資料・実物の存在が必要です。

現在の鍛冶屋形態では大変に厳しい条件ですが、
すでに指定を受けている刃物産地もあり、
三条も頑張り、物作りの基本とも言われる鍛冶という仕事を
何とか残し、続けられたらと思います。



三条の伝統指定申請品目は
庖丁 切り出し小刀 鉋 鑿 鉞 鎌 鉈 木鋏 ヤットコ 和釘
の10品です。


他に三条鍛冶製品の中には
玄のう 鋸 曲金 錐 握鋏などの鋏類 和剃刀 釘抜き 墨壺
などが有りますが、色々な理由で今回の申請には
出されておりません。









  その2弟子とは07.9.1.)

弟子と言うと,今では新弟子などと相撲の世界でしか聞かないようですが,
弟子に入るとまず、親方の言われる事に絶対に反発してはならない。
これは私なりに今考えると、これから仕事を覚えていく上で
一番大切な心構えではないかと思っています。


それは、これから何も知らない仕事を覚えていくため、
頭の中を空にさせる必要があるからです。

職人の仕事は、頭で考えてもなかなかうまく行かないものです。
仕事は体で覚えていくため、先手(大鎚を叩く)を初めの頃は、
親方の思うところに向こう鎚が当たらぬ時、「何をしているんだ」と言って
手に持っている物(差し金や箸など)で、手、足、頭、どこでも叩かれると
一瞬身が引き締まり、不思議と鎚がうまい所に当たるんです。

(親方の火作りの仕事する所を横座又はだいく座と言います。
その手伝いをする事を、先手とも言います。)


ちょっと例えが悪いですが、私が子供の頃、眼にした事があるのですが、
重い荷車を引いていた馬や牛が疲れて動かなくなると、
引いている人が大きな声で気合を入れ、鞭で叩くとまた頑張って荷車を引く。
これは、人は決して自分の力になってくれる牛や馬が憎いのではなく、
頑張ってくれと頼んでいるのだと思います。
仕事が終わって餌を与える時は体をきれいに拭き鼻筋を撫でていました。


こういう訳で頭の中を空にしておかないと弟子も人間ですから、
耐えていく事が出来ません。
だけど叩く親方もきっと同じ道を通って来たのだから、
決して弟子の為にはならない事はしていないと信じて・・・。

親方は戦争に行った人ですので、よく「俺はいち兵隊を育てるつもりは無い
将校を育てるつもりで、教えている」と言っていました。


この様な色々な事があって、頭だけでなく体で覚えていくのだと思いました。

弟子の時はまだこれが天職だと微塵にも思っていませんでした。









その1、天職(07.8.1)


天職、これは私の知らない所で
この世に生まれた時から決まっていたのではないだろうか。

昭和27年9月15日、その日私が鑿鍛冶と言う道に入る事になっていました。
小学校を卒業した年の12歳の初秋、午後4時頃だったと思います。
遊びから帰ると、親方となる市内の鑿鍛冶・佐藤栄登志氏(作銘・栄とし)が
私の家に来ていて、母がわずかな着替えを入れた竹コウリ
(竹で編んだ衣類を入れる物)を親方の自転車の荷台にのせ
(今なら自動車でしょうが)私は教科書などを入れた風呂敷包みを背負い、
自転車の後ろを歩いてついて行き、1キロ位先にある
親方の家で住込みの年期奉公に入りました。

この時代にはまだ徒弟制度の世界が残っており、20才までは住込みの弟子で
その後年期が明け、1年のお礼奉公をし(仕事を教えて頂くのだから)、
その間は小遣い程度で、今日の様に給料は有りません。
お礼奉公が終わると初めて自分の家から通うことが出来る
職人として認めて頂きました。
(職人になると給料をもらえるようになります。)

この12才〜21才までの9年間での厳しい修業の中で一番楽しかったのは
「やぶ入り」と言って、小正月の15日、16日とお盆の15日、16日の年に2回、
親元に泊りがけで帰れるときで、中でも初めての小正月のやぶ入りで、
母が作ってくれた稲荷すしの味は忘れる事が出来ません。

きっと、色々な職業で修業された方々も同じ様な経験をされ
天職という道で活躍されておられる事と思います。




TOPへ 鑿鍛冶の独り言 次回の出没先 道生の独り言 問い合わせ
プロフィ−ル 刃砥ぎについて 製作工程 今月の特殊品
切り出しなど 特殊刃物 リンク